とっとと映画評を終わらせようと思って書き出したところ、大雪にテンションがあがり、逆に長々とブログを書いてしまいました。
さて、その最後に、映画「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」の主人公が悲しいのは、「自分の欲望を明確化できなかった」ことなんじゃないか、と書きました。
彼が人生で使いたい額(遊ぶ額)は、彼がそんなにまで稼ぐ額よりはるかに小さく、そこに違和感をもったからです。
お金があったほうがいいのはわかります。
欲望が欲望を産むのもわかります。
でも彼が体験できる=手触り感のある欲望は、たかが(というのもあれですが)年数億で片がつくものだった、ということなんですね。
「暇と退屈の倫理学」を書かれた哲学者の國分功一郎さんは、その中で、ボードリヤールを引いて、消費と浪費の違いを述べてます。
”浪費とは何か?浪費とは必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。(中略)
浪費は必要を超えた支出であるから、贅沢の条件である。そして贅沢は豊かな生活に欠かせない。
浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。”
一方、
”消費は止まらない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。
なぜか?
消費の対象が物ではないからである。(中略)
人は物に付与された観念や意味を消費するのである”
その中で、浪費の例として食事、消費の例としてブランド品とかをあげられてますが、今回の映画の主人公の行動を消費と捉えた方がすんなり入ります。
1200万円のカーペット、200万円の食事、600万円のベビーベッド・・。
そこにある”物”の価値ではなく、”観念”としての価格。
國分さんはそして、どの人生にも訪れる退屈、もっというと人間存在に関わる退屈そのものに対峙する方法の1つとして、
”贅沢を取り戻すこと”=浪費を楽しむことを提示されます。
終わることのない観念”消費”のゲームを続けるのではなく、贅沢=満足を楽しむ。
食事を、音楽を、日常を楽しむことが、退屈という人間存在の不安に対する1つの切り口である、と。
(素晴らしい本なので、ご興味のある方はぜひご一読を)
それは手触り感のある、欲望をきちんと明確化すること、そしてその欲望を楽しむこと、
逆に言うと、手触り感のない観念消費、記号としての消費をコントロールすること、なんだと僕は認識しました。
「ウルフ」の主人公は、遊んでも遊んでも満足することなく、いや、それ自体が自分の求めるものなのか、ということすら理解していなかったように思えます。
100万円のワインであれ、5000円のワインであれ、重要なことは観念としての金額に支配されるのではなく、ワイン自体を自分で選び、楽しみ、満足すること。
例えば、アイアンマンのトニー・スタークの資産が約8800億円で、バットマンのブルース・ウェインの資産が約6600億円。
ユニクロの柳井さんは約1兆2369億円の資産で、いつでもアイアンマンになれるんですね。(バットマンにもなれます)
で、書いておきながらなんですが、こんな議論には何の意味もないわけです。
(ちなみにユニクロはヒートテックではなくアイアンスーツを作るべきだと思う)
そうではなく、個人の人生で言えば、手触り感のある、自身の欲望を明確化すること。
そして、その欲望を満足させられる収入を得るために努力すること。
できてるかって聞かれると、難しいよねって思います。
でも、それを考えることが次世代を生きるには必要なスキルなんだろうなと、映画館を出ながら思うわけでもなく、そのままサウナに行って気持よく汗を流したのであります。
(所詮、映画ですし原作も色々盛っているところがあるので、あくまで僕の感想ということで)
それより「ウルフ」の主人公の第二の奥さん、映画ではめっちゃ可愛いのですが、実際の方を検索すると意外とそうでもなくて、西洋と東洋の遠さに呆然としております。
世界って広いね。